日本政治を占う No.5「日本の自立を阻む自虐史観」

毎年8月15日の終戦記念日になると、日本のメディア、特に左翼系のメディアは戦争の悲惨さや平和の大切さを訴えるようなテーマを取り上げます。
戦争は日本が過去に犯した大きな過ちであり、平和とは一切の武器を持たないことだといいます。
このような自虐史観は国防を放棄させるので、平和を維持するどころか、結果として日本国民の安全と生存を脅かすことにつながります。
8月15日は、自虐史観を払拭して、正しい歴史を学び、国防を考える日とするべきでしょう。

 

過去の過ちという妄想

近年、中国は台湾侵攻を明言し、北朝鮮は核開発を着々と進めています。
そうした脅威に対して、日本は防衛力を強化することが避けられないはずですが、国内には「他国から攻撃を受けることなどありえない」「仮に攻撃されたら白旗を上げて降参すればよい」と言って反対する主張も少なくありません。
このような無抵抗主義が賞賛される理由は「日本が過去に侵略戦争という大きな過ちを犯した。」と、多くの日本人が信じているからではないでしょうか。
だから日本が軍隊や自衛隊を持てば、暴走して歯止めがかからなくなり、再び他国を侵略すると思っているのでしょう。
しかし、そのような自虐史観は、アメリカを中心とした連合国に刷り込まれた誤った価値観です。
第二次世界大戦が終了すると、戦勝国となった連合国は地球上のほとんど全ての国を支配下に置きました。
この体制を永久に維持していくためには、枢軸国である日本、ドイツ、イタリアが再び連合国の脅威とならないように、戦力を取り去ることが必要と考えたことでしょう。
その一つとして連合国は日本の憲法改正に着手しました。
占領下に憲法を改正することは、当時の国際条約である「ハーグ陸戦条約」に違反する行為でしたが、表向きは日本が自主的に改正したことにされました。
アメリカの思惑通りに日本は憲法を改正しましたが、それだけでは不十分と考えたのでしょう。
占領が終わった後、日本は直ちに再軍備するかもしれません。
そこでアメリカは、日本が憲法を改正し再軍備することのないように、さらに手を打ちました。
それは日本人の精神を根本から変えることでした。
第二次世界大戦は、アメリカ、イギリス、フランスなどの連合国が民主主義を守るために、侵略国家である枢軸国のドイツ、イタリア、日本と戦ったという連合国史観を世界中に広めようとしました。
そのためには枢軸国を徹敵的に悪に仕立て上げる必要がありました。
日本人にとっては、「侵略戦争という大きな過ちを犯した。」という自虐史観が形成されることでした。
戦後、日本人はこの自虐史観を受け入れてたので、アメリカの思惑通り、占領が解除されても憲法を改正し、再軍備することはありませんでした。
むしろアメリカの思惑を超えるくらい積極的に受け入れてしまいます。
1950年に朝鮮戦争が勃発するとアメリカは、日本の再軍備が必要と早々に立場を変えてしまいますが、当時首相の吉田茂はアメリカ特使のジョン・フォスター・ダレスとの会談で「日本は憲法9条があるからできない」とアメリカからの再軍備の要求を拒否してしまいます。
それ以降、憲法改正について議論することはタブーとなり、反戦平和運動が活発になりました。
自虐史観は時が経つにつれてますます日本社会を蝕んでいきます。
中国や韓国に対しては、謝罪外交が基本方針となりました。
教育においても大きな影響を及ぼしました。
1982年に、教科書の基準に近隣諸国条項が定められ、近隣のアジア諸国に必要な配慮がされることとなりました。
(※2013年の教育基本法改正で見直されました。)
1995年8月15日、当時首相の村山富市氏は「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題する声明を発表し(いわゆる村山談話)、日本政府として公式に謝罪を表明しました。以下はその一部です。
「・・・・・ わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。・・・・・」
村山氏以降の首相は、就任時にこの談話を継承することが慣例となりました。
村山談話は、非常に不可解な声明です。
「遠くない過去の一時期」と時期を曖昧にしながら、また具体的にどのような過ちを犯したかを説明しないまま「疑うべくもないこの歴史の事実」と断言しているのです。
それもそのはず、歴史的事実を説明しようとすれば、日本が濡れ衣を着せられたことが明らかになってしまうからです。
本当の歴史について語ることをすれば、歴史修正主義者というレッテルを貼られます。
歴史的事実に向き合うことができないのは、東京裁判によってそれがタブーとされたからです。

 

偽善の東京裁判

東京裁判は、ポツダム宣言第10項「・・・・吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加へらるべし」が法的根拠となっています。
1946年1月19日、連合国軍最高司令官のマッカーサーにより極東国際軍事裁判所条例が公布され、これに基づいて同年5月3日に東京裁判は開廷しました。
東条英機をはじめ、28名の政治家や軍人がA級戦犯として起訴されました。
裁判官は、米、英、仏、中、カナダ、豪州、オランダ、ニュージーランド、ソ連、インド、フィリピンから各1名ずつの合計11名。
裁判長はオーストラリアのウィリアム・ウェブ、検察局は、アメリカのジョセフ・キーナン他、連合国各国から選出されました。
弁護人は、鵜沢総明団長、清瀬一郎副団長を中心とした日本人弁護団と、フランクリン・ウォレン、ベン・ブルース・ブレイクニーらを中心としたアメリカ人の弁護団で結成されました。
極東国際軍事裁判所条例は、1945年11月20日にドイツの戦争犯罪人を裁くことを目的として開かれたニュルンベルグ裁判のための国際軍事裁判所条例がほぼそのまま適用されました。
この条例では、戦争犯罪を「平和に対する罪」、「通例の戦争犯罪」、「人道に対する罪」の3つに分類しました。
平和に対する罪とは、侵略戦争又は条約等に違反する戦争の計画、準備、開始、遂行やこれらのいずれかを達成するための共同謀議への参加等。通例の戦争犯罪とは、戦争の法規又は慣例の違反。人道に対する罪とは、戦前又は戦時中の殺人、せん滅、奴隷的虐使や政治的又は人種的理由に基づく迫害行為等。とされています。(外務省ホームページ)
ニュルンベルク裁判で死刑宣告されたナチス・ドイツの戦争指導者たちは、通例の戦争犯罪の他、平和に対する罪と人道に対する罪で裁かれました。
平和に対する罪と人道に対する罪は、それまでの国際法にはないものでしたが、1945年の米・英・ソ・仏によるロンドン会議において、ナチス・ドイツの戦争指導者たちを裁くために提唱され、ニュルンベルク裁判で適用されました。
ユダヤ人の大量虐殺は人道に対する罪に当たり、平和に対する罪は一連の軍事行動がナチスによる共同謀議とされました。
しかしそれらの罪を、日本にも適用しようとしたことには無理がありました。
東京裁判では、人道に対する罪は適用することができず、平和に対する罪だけで裁判が行われることになります。
人道に対する罪として、ユダヤ人大虐殺に匹敵する南京大虐殺をでっち上げようとしましたが、無理がありました。断罪するためには、平和に対する罪で共同謀議を当てはめる必要がありましたが、これもドイツとは条件が異なります。
東京裁判では、共同謀議の期間は1928年1月1日~1945年9月2日とされていますが、この期間に日本の内閣は16回交代しており、ナチスと同じような一連の計画・実行による計画だというには無理があります。
しかし裁判では共同謀議があったと断定されてしまいます。
そもそも判決は初めから決まっていました。東京裁判とは日本を断罪するための儀式だったからです。
1948年11月12日に下った判決では、裁判の途中で起訴を取り消された3名を除く25名全員が有罪、7人が絞首刑となりました。
東京裁判は、日本の戦闘行為だけに着目して判決が導きだされているので、そこから歴史的事実は見えてきません。
それでは歴史的事実とはどのようなものだったのでしょうか。

 

仕組まれた太平洋戦争

太平洋戦争は、日本の真珠湾攻撃がきっかけであるとされています。
しかし日米戦争は真珠湾攻撃の前からすでに始まっていました。
1937年に日中戦争が勃発すると、アメリカは中国(中華民国)を裏から支援しました。
当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは中国に対して好感を抱いていたので、日本の敗北を望んでいました。
もちろんルーズベルト1人だけが親中だったわけではありません。
アメリカでは民主党議員の多くが日本を敵視し、中国への支援を主張していたのに対して、共和党などからは反対論もありました。
民主党には、ソ連共産党のスパイが潜り込んでいました。
ロシア革命に成功したウラジーミル・レーニンは1919年、共産党の国際組織としてコミンテルン(第三インターナショナル)を創設し、世界中に共産党を誕生させました。
レーニンは、各国に送った共産党員に反戦運動を指示して自国が戦争に負けるように仕向け、敗戦国の政府から政権を奪い取ることを企んでいました。
日本とアメリカはその対象国であったため、当初は日米の対立を煽っていました。
この時点ではコミンテルンにとって、敗戦国が日本であろうとアメリカであろうと、問題は無かったのです。
同じように、イギリスとドイツの対立も煽りました。
1924年1月にレーニンが死去すると、ヨシフ・スターリンが後継争いで対立するレフ・トロツキーを制して権力の座に就きました。
レーニンの方針を継承し世界革命論を主張するトロツキーに対して、スターリンは一国社会主義論を唱え、ソ連一国で社会主義国家の建設は可能と主張します。
1931年、満州事変が勃発すると、ソ連は日本を脅威と感じるようになります。
1935年、コミンテルンは敗戦革命からソ連防衛に方針を転換します。
それによって、日米戦争・英独戦争の煽動という当初の戦略は、米英支援・日独打倒へと大きく修正されることになります。
コミンテルンは、各国の共産党員に中国の支援と日本への経済制裁を指示しました。

日本が満州国を建国した1932年当時、アメリカでは日本への方針が二分していました。
民主党は満州事変が日本の侵略戦争であるとして対日経済制裁を主張し、共和党は日本の弱体化はソ連の台頭を招くとして対日経済制裁に反対でした。。
当時のアメリカでは、1929年の世界恐慌に対して共和党のハーバート・フーヴァー大統領の経済対策が失敗だったという見方が大勢を占めていました。
そうした背景から共和党は支持を失い、代わってニューディール政策を掲げたフランクリン・ルーズベルトが1933年に大統領に就任しました。
アメリカ共産党は、社会主義的な政策を打ち出すルーズベルトを支持するようになります。
こうしてアメリカの民主党と共産党が日本打倒で一致したところで、ルーズベルトは日本との戦争を決意します。
ただ当時のアメリカ国民には、第一次世界大戦の反省から、戦争には巻き込まれたくないという声が多くありました。
アメリカでは1935年に中立法が制定され、戦争状態にある国に対して武器輸出はできないことになっていましたが、1937年に日中戦争がはじまると中立法は適用せず、イギリスを介して中国へ武器を輸送します。
同年10月5日、ルーズベルトは中立・不干渉主義を辞めて日本・ドイツ・イタリア(演説では国名を明らかにしていませんが)の侵略を阻止すべきと主張します。(防疫演説)
この演説に対しては、批判の声が多くありましたが、しかしそれでもアメリカは参戦に傾いていきます。
第二次世界大戦のヨーロッパ戦線において、1940年5月、ドイツはルクセンブルク、オランダ、ベルギーを陥落させるなど攻勢に出ました。
さらに6月14日、フランスの首都パリを陥落させました。6月22日、フランスが降伏すると、ルーズベルトはイギリスが陥落すればアメリカも存亡の機に立たされると懸念しました。
イギリスを救うためには、アメリカも参戦することが必要と考えました。
しかし、中立法により直接の参戦はできなかったので、ルーズベルトは武器を送るなどしてイギリスを支援しました。
この前年の1939年11月、第4次中立法が成立し、同盟国のイギリスとフランスに対して軍事物資の輸出が行えるようになっていました。
アメリカに参戦の機会がおとずれたのは、1940年9月27日、ベルリンで日独伊三国同盟が結ばれたときでした。
1941年3月、武器貸与法が成立し、イギリス、フランス、中華民国、ソ連、その他の同盟国に対して武器貸与が可能になりました。
この法律によって戦争状態にある国への武器輸出規制が撤廃されたので、中立法は事実上廃棄となりました。
1941年4月、大統領補佐官のラフリン・カリーは、中華民国と連携して日本を爆撃するという「日本本土爆撃計画(JB355)」を立案し、7月23日、ルーズベルト大統領はこの計画を承認しました。
1941年7月26日、日本の在米資産は凍結されました。
8月1日、日本への石油の輸出が全面的に禁止されました。
11月1日、日本では大本営政府連絡会議が開かれ、戦争準備と外交を平行することが決定されました。
但し交渉期限は11月30日とされました。
日本側は、インドシナ南部からの軍部の撤退などアメリカへの大幅な譲歩と、アメリカに対して石油供給の再開と中国問題への不干渉を要求した乙案を作成し、ワシントンの野村吉三郎駐米大使に極秘電報を打ち、これが最終案であることを伝えます。
しかしルーズベルトは暗号解読によって、正式に受け取る前からすでに乙案を読んでおり、最終案であることも把握されてしまいました。
これを拒否すれば日本が戦争を仕掛けて来ると確信しました。
11月26日、国務長官のコーデル・ハルは、ハルノートといわれる外交文書を日本側に提示します。
中国及びインドシナからの一切の軍事力、警察力の撤収を要求され、一方日本側が要求した石油輸出の再開はありませんでした。
日本にとってとうてい受け入れられる内容ではありませんでした。これを最後に外交交渉は途絶えました。
12月1日、御前会議にて12月8日の開戦が決定しました。
ルーズベルトは、またもや暗号解読によって、日本の奇襲攻撃を予測していました。
(真珠湾が最初の攻撃目標だったかどうかについては複数の説がありますが・・・)
ルーズベルトとコミンテルンは、思惑通りアメリカを参戦に導きました。
アメリカ民主党にソ連共産党のスパイが潜り込んでいたことは、ソ連が崩壊するとヴェノナ文書(ソ連スパイの暗号解読文書)が公開されたことにより、明らかになりました。
JB355を立案したラフリン・カリーや、武器貸与法の作成や対日在米資産の凍結、ハルノートの作成に関与したハリー・デクスター・ホワイトもソ連共産党のスパイでした。
その他複数のスパイがアメリカの中枢に入り込んでいました。
日本が戦争を回避することなど、連合国側は認めるわけにはいかなかったのです。

条約によって得た満洲の権益

満洲事変は1931年9月、中国東北部の柳条湖で日本軍が起こした事変とされています。
日本の侵略戦争の始まりといわれていますが、満州とは今の中国共産党、あるいは漢民族が支配していた国ではありません。
この地には、もともと女真族という狩猟民族が住んでいました。
1616年、女真族が清の前身となる後金を建国しましたが、支配した地域は東北部のみでした。
1644年、李自成の乱により漢民族の明が滅びると、清は李自成を倒し首都を盛京から北京に移して中国全土を支配します。
支配した当初は封禁政策がとられ、祖先の地である満州への漢民族の移民を禁止しました。
しかし1885年に封禁が解除されると、漢民族の人口が増加していきます。
また朝鮮民族も、満州へ移民し増加しました。
満州は多民族が共生する地となりました。
ロシアも1891年にシベリア鉄道の建設に着手して満州での影響力を強めます。
1894年、日清戦争で勝利した日本は、下関条約により遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲が認められましたが、
シベリア鉄道の建設を大連まで南下させようとしていたロシアにとって、遼東半島を日本へ割譲するのは許しがたいことでした。
1895年4月23日、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉により、日本は遼東半島の旅順と大連の返還を余儀なくされました。
ロシアは三国干渉の見返として、東清鉄道の敷設権を清に認めさせました。
アジアを狙っていたのはロシアだけではありませんでした。
1897年、ドイツは膠州湾(山東半島の南側の海岸)、1898年、イギリスは威海衛(山東半島の先端)・九竜半島(香港島の対岸)、フランスは広州湾(広東省の西部)・海南島(南シナ海北部)、日本は福建省(台湾の対岸)の租借権を得ました。
このように列強は次々と清と不割譲条約を結び、事実上その地を支配しました。
不割譲条約とは、清が租借権を得た国の同意がなく、第三国に領土を割譲してはいけないというものでした。
日本は日清戦争で台湾を得たので、福建省は台湾の安全を確保するためにも重要な地域でした。
1900年、義和団の乱が起りました。義和団は清軍とともに列強の公使館を攻撃しました。
英・米・仏・墺・独・伊・露・日の8ヶ国からなる連合国が軍を派遣して鎮圧し、翌年北京議定書が調印されると、連合国は公使館のある区域や海岸から北京までの重要地点を事実上占領する権利を得ました。
ロシア軍は、義和団鎮圧という名目で満州も占領し、鎮圧後も撤兵しませんでした。
ロシアはさらに、清の支配力が弱まった朝鮮に対して影響力を強めます。
ロシアのこのような動きを、日本やイギリス、アメリカなどは警戒しました。
しかしイギリスは南ア戦争(1899年10月~1902年5月)、アメリカは米比戦争(1899年2月から1902年7月)のため、極東までは手が回りませんでした。
日本は出兵に消極的でしたが、イギリスの圧力に屈しました。
日本とイギリスは日英同盟を結び、ロシアの圧力に対抗しました。
ロシアは一旦満州からの撤兵を約束しますが、すぐに反故します。
1903年5月、日本の生命線となる朝鮮半島北西部の龍岩浦にロシア軍が侵入したため、日本国内は開戦論に傾き、1904年、ついに日露戦争が勃発します。
日本はこの戦争に勝利し、ポーツマス条約により遼東半島の先端部と南満州鉄道の権益をロシアから引き継ぎます。
1905年12月に日本と清の間で満州善後条約が締結され、清はポーツマス条約の内容を了承しました。
このように日本軍が中国に駐留していたのは、すべて条約に基づいています。
下関条約によって台湾を獲得し、福建省不割譲協定により福建省を支配し、北京議定書により、北京に軍を駐留させ、ポーツマス条約により満州の権益を得たのです。
ここまでは欧米列強と足並みを揃えていたので、欧米から侵略とは見なされてはいませんでした。
しかしその後、展開が変わっていきます。
1907年、日本とロシアは日露協約を結び、満州の開発を共同で進めていきます。
アメリカはこれに反発し、日本を敵視するようになります。
ロシア革命によってソ連が誕生すると日露協約は破棄されます。
アメリカ、ソ連という2つの大国から敵視されると、それまでの国際法に基づいた日本軍の動きは侵略と見なされるようになりました。
日本は国際社会から孤立していきます。
一方その頃中国では、1911年の辛亥革命を経て中華民国が成立しましたが、その後も内戦は続きました。
さらに排日運動が高まり、日本人居留民の安全は脅かされていました。
日本が中華民国政府に抗議した事案は3千件に及ぶといわれています。
1931年6月27日、陸軍の中村震太郎大尉が、張学良の指揮する屯墾軍に殺害されました。
それに続き7月2日、中国人と朝鮮人が衝突したことをきっかけに、万宝山事件が発生しました。
1910年の韓国併合後、多くの朝鮮人は日本や満州に移住していたので、事実上日本と中国の対立でした。
日中は一触即発の状態となりました。
1931年9月18日、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破するという柳条湖事件を引き起こし、満洲事変が勃発しました。
(ただし、関東軍による爆破を裏付ける証拠はないという説もあります。)

 

中国が挑発した日中戦争

日中戦争(日本では支那事変と呼称)は、1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件が発端と考えられてきました。
以前は日本側が仕掛けた事件とされていましたが、今日では中国共産党の工作員の仕業だということが定説となっています。
事件の4日後には停戦協定を結び、日本は戦争を回避したいと考えましたが、中国側は国共合作により抗日で一致し、対決姿勢を崩しませんでした。。
7月13日、北京の大紅門で日本軍のトラックを爆破して4名を殺害するという大紅門事件が起こり、さらに翌日には日本兵1名が惨殺されました。
7月25日、北京と天津の中間にある廊坊駅で、日本軍に対して中国軍が発砲するという郎坊事件が起こりました。
翌26日、北京で中国軍が日本軍のトラックを襲撃する広安門事件が起こりました。
7月29日、日本人約200人が虐殺される通州事件が起こりました。
8月9日、大山勇夫海軍中尉と斎藤與蔵一等水兵が殺害されるという大山事件が起こりました。
8月13日、中華民国軍と日本軍との軍事衝突する第二次上海事変が勃発しました。
同日、イギリス、フランス、アメリカ総領事が日中両政府に日中両軍の撤退と多国籍軍による治安維持を伝えたが戦闘はすでに開始していました。
8月14日、中国空軍は上海空爆を行いました。
8月15日、近衛内閣は「もはや隠忍その限度に達し、シナ軍の暴虐を膺懲し、南京政府の反省を促す。」との声明を発表しました。その後、日中全面戦争に発展しました。
日中戦争は、国共合作による日本軍への挑発が引き金となり勃発したのです。

 

日本が自立するためには

日中戦争や満洲事変は中国の挑発により勃発し、太平洋戦争はルーズベルトとコミンテルンにより誘導されました。
しかし裁判では、アメリカや中国の挑発行為は考慮されず、日本軍の攻撃だけに着目されました。
ニュルンベルク裁判や東京裁判で侵略戦争が国際法違反とされたのは、1928年に63ヶ国が署名したパリ不戦条約によって侵略戦争が禁止されたことを根拠としているからです。
但し、侵略と自衛の定義はされませんでした。
それをすることによって、侵略国家が侵略を容易にしてしまうと思われたからです。
侵略かどうかは当事国同士が決めることになります。
当時の国際社会において、経済制裁は戦争行為であると見なされていました。
パリ不戦条約の共同草案者である米国務長官のフランク・B・ケロッグは米国議会において、経済制裁は戦争行為であるという趣旨の答弁をしています。
日本の戦闘行為だけに着目するのではなく、日本を含む戦争に関わったすべての国の歴史を俯瞰して見れば、日本の戦争が自衛戦争だったことは明らかです。
しかし判決は、最初から決まっていました。
東京裁判とは、戦勝国が敗戦国を一方的に裁くという茶番劇でした。
しかし、多くの日本人は「文明の裁き」という偽善の理念に心酔し、日本の侵略戦争は疑いのない事実だと信じ込まされてしまいました。
日本の左翼は、「戦力不保持」や「謝罪外交」といった他国には見られない異質な主張をします。これらの主張が成り立つためには、日本が侵略戦争を起こした悪い国であるという条件が必要です。
だから彼らは日本が悪い国であってほしいと願っています。
日本が悪い国でなければ、彼らの理想とする平和主義が崩れてしまうのです。
だから歴史を見直す動きに対しては、歴史修正主義者というレッテルを貼り、必死で叩き潰そうとします。
日本の左翼にとって、歴史問題は触れてはいけない聖域なのです。
聖域を恐れずに歴史と向き合わない限り、日本が自立することはないでしょう。

 

参考文献
外務省ホームページ『戦後50周年の終戦記念日にあたって(いわゆる村山談話)』『歴史問題Q&A 関連資料 極東国際軍事裁判(「東京裁判」)について』
宇田川幸大(2022)『東京裁判研究』(岩波書店)
D・コーエン/戸谷由麻(2018)『東京裁判「神話」の解体』(ちくま新書)
江崎道朗(2016)『アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』(祥伝社)
加瀬英明/ヘンリー・S・ストークス(2012)『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』(祥伝社)
皿木喜久(2014)『子供たちに伝えたい日本の戦争』(産経新聞社)
神野正史(2013)『世界史劇場 日清・日露戦争はこうして起こった』(ベレ出版)
宮脇淳子(2018)『日本人が知らない満洲国の真実』(扶桑社新書)