日本政治を占う No.3「皇室を危機にさらす万世一系説」

皇統断絶の危機

現行の皇室典範では皇位継承資格者は「皇統に属する男系男子」とされており、秋篠宮様、悠仁様、常陸宮様の三方のみです。
悠仁様がご結婚されなかった場合、又はご結婚相手が男子を産まなかった場合、皇統が途絶えることになります。
この危機を回避するための方策としては、女性・女系天皇を容認する案や、旧宮家を活用し男系継承を維持する案などが挙げられています。
男系継承を維持する案には、さらに旧宮家を皇籍復帰させる案と、現宮家が旧宮家から養子を迎え入れる案があります。
以下、前者を支持する人達を女系容認派、後者の2案を支持する人達を男系派と呼ぶことにします。
この2つの勢力は対立し、互いに相手の主張を否定しています。
女系容認派は、男系継承がこれまで可能だったのは側室制度があったからといいます。
これに対して男系派は、現代は乳児死亡率が改善しているため、側室制度がなくても問題ないといいます。
また女系容認派が、旧宮家の皇籍復帰は民間人の人権を制限することになるといい、男系派は皇族に人権が無いことは当然といいます。
安定的な皇位継承という問題は差し置かれ、不毛な政治的イデオロギーの対立構図になっています。
とりわけ男系派は、断固として女系天皇を認めないという極めて強い態度です。

 

政治は男系維持

国民の多くは女性・女系天皇を容認しているといわれていますが、政治は認めない方向に動いています。
平成29年6月に示された「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に基づき、令和3年3月に有識者会議の初会合が開かれ、12月22日に報告書がまとめられました。
報告書では、次の3つの案が示されました。
① 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することとすること
② 皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とすること
③ 皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること
①案は一見、女性・女系天皇を検討したかのように見えるかもしれませんが、そうではありません。
文化・学術、スポーツなどの各種式典や大会への臨席、災害等に関わる慰問・慰霊、外国訪問など様々な公的活動を行うことや、天皇を支えることだとしています。
付帯決議では、安定的な皇位継承を確保するための諸課題や女性宮家の創設等について検討・報告するよう
求めていましたが、機が熟していないとして議論せず、皇族数減少に係る課題と論点をすり替えました。

 

万世一系という虚構

男系派が女系天皇を認めない理由は、いわゆる「万世一系」という思想があるからです。
それは天皇の血統が、2000年以上にわたり男系で続いてきたというものです。
そして、女系に移行すれば、その瞬間に血統は途絶えて日本は終わるといいます。
有識者会議の報告書も次のように書かれています。
「今上陛下は第126代の天皇でいらっしゃいますが、これまで歴代の皇位は、例外なく男系で継承されてきました。」
しかしこのような主張の根拠は、極めて曖昧なものです。
特に古代においては、男系継承と断定できるほどの十分な証拠はありません。
万世一系とは、歴史はこうあって欲しいという、男系派の願望です。

 

古代の日本は双系社会だった

記紀(古事記と日本書紀)が編纂されたのは8世紀の前半ですが、神話から始まり、神武天皇が即位したとされている紀元前660年から約1300年の天皇系譜が書かれています。
しかし漢字を読み書きできる能力を持った人が増え始めたのは6世紀から7世紀といわれており、そうだとすれば1000年以上にわたる系譜が口頭で伝わってきたことになります。
口頭による系譜については、日本文学研究者の工藤隆氏による興味深い研究があります。
工藤氏によると、中国西南部、長江流域に、昔は母系社会だった少数民族が、父系社会の漢民族と接触することによって、父系に移行し、系譜を口頭で伝えるようになったことや、そもそも母系社会には系譜意識自体が存在していなかった可能性があるそうです。
さらに工藤氏は、古代の日本においても、このような経緯をたどっていった可能性があることを指摘しています。
父系社会は男性優位の社会でもあり、後に述べるように、古代から中国文化に接する中で少しずつ移行し、律令制が成立する頃に確立したと思われます。
ですから古代には女性のリーダーも多く存在していたと思われます。
考古学の分野では、多くの古墳の発掘調査において、首長の埋葬や副飾品などから、女性首長が多く存在していたことが明らかになっています。
文献資料としは、西晋の陳寿が3世紀後半に著した「魏志倭人伝」が、3世紀前半の日本社会の様子を知る手掛かりとなります。
同書には、もともとは百余国が争っていたことや、女王卑弥呼が魏に使者を派遣し、返礼に金印や銅鏡を授かったこと、男子王の国(狗奴国)との争いがあったことなどが書かれています。
これら考古学の研究や中国の文献資料から、弥生時代の後期から古墳時代の前期にかけての日本社会は、小国が乱立し、女性の首長も多かったこと。
また中国皇帝への朝貢によって周辺国の王はその地位が認められるという、中国を中心とした冊封体制に組み込まれていたことなどがわかります。
以上により、その時代に大和王権が日本を統一していた可能性は考えにくく、たとえ大和王権につながる比較的力をもった氏族があったとしても、男系継承をしていたと断定することはできません。
むしろその可能性は低いとさえいえるでしょう。
男系継承は、中国文化に接する中で、その影響を受けながら、少しずつ取り入れられてきたものと思われます。
そして、後に述べるように、律令制度が成立したときに、制度化されたのでしょう。
弥生時代後期から古墳時代前期は、母系(若しくは双系)社会から男系社会への移行期だったのではないでしょうか。

 

記紀編纂以前における天皇系譜の信憑性

王権によって、多くの小国が平定されたのは4世紀から5世紀頃と思われます。
「宋書夷蛮列伝」には、478年に倭王武(雄略天皇)が、宋の皇帝に送った上表文の記載があります。
そこには「祖父(仁徳天皇)が東の55国、西の66国、海北の95国を平定した。」という内容が書かれています。
東洋史学者の故岡田英弘氏は、仁徳天皇を最初の王朝(河内王朝)と考えていました。
その根拠を示す資料として上記倭王武の上表文の他にも、高句麗の「広開土王碑」を挙げています。
そこには「391年、倭が海を渡って、百済・新羅を破り臣民となした。」という記述があり、これを倭王武の上表文に書かれた「海北の95国の平定」とみなしています。
岡田氏は、日本書紀に書かれている難波に皇都(高津宮)を築いたことや、淀川の氾濫を防ぐために堤防を築いたことなどの実績から、王朝の建国の君主にふさわしいと述べています。
但し、仁徳天皇が実在したとしても、その後の系譜が正確であるとは限りません。
記紀よりも古い資料は残っていませんが、古事記の序には、太安万侶が元明天皇の命を受け、いくつかの原資料を元に編纂に着手したことが書かれています。
そこには、天武天皇が次のように述べていたことが書かれています。
「諸家の所蔵する帝紀及び本辞には、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものが多いとのことだ。ならば今このときに、その誤りを正しておかないと、幾年も経たないうちに真の歴史は失われてしまうに違いない。」
歴史学者の津田左右吉は、この序文から、諸家が所蔵するものには、帝紀と旧辞(または本辞)があり、帝紀は天皇の系譜を、旧辞は種々の物語や事柄が書かれていると解釈しました。
津田は、帝紀と旧辞が元は1つであったが、諸家に渡り伝えられる中で、改変されたり、異本ができたりしたと考えています。
それについて次のように述べています。
「・・・家々においてその家格を尊くしようとか、祖先を立派にしようとかいう動機から出た場合も少なくなかったろう。允恭天皇のときに氏性の混乱を正されたという話があるのも、こういう事実の反映であって、あるいは領地などの物質的利益のためから、あるいは一種の名誉心から、種々の造作が家々の系図に加えられたのであろう。とくに身分の低い、系図のわからぬものが身を立て地位を得たような場合に、こういうことが行われたろうということは、後世の状態からも類推せられる。家計が重んぜられる世においては、系図を製作し、紙上の祖先を設けることは、昔も後世と変わらなかったに違いないからである。」
こうして古事記が編纂されることになりますが、果たして正しく直されたでしょうか。
諸家において改変されたのと同じように、編纂を命じた当時の権力者の意図が反映されなかったという保証はありません。
津田は、次のように述べています。
「朝廷の権威をもって正説を定めるということであるが、実をいうと、よしそれができあがったにしても、こういう方法で果たして真の正説が定められたかどうか、すなわち歴史的事実を明らかにするように旧記の批判ができたものかどうかは、今日から保証の限りではない。・・・」
天皇系譜図の疑わしい箇所について岡田氏は、第22代清寧天皇から第23代顕宗天皇への継承と、第25代武烈天皇から第26代継体天皇への継承で、男系による継承が途絶えていることを指摘し、ここで王朝交代があったと主張しました。
継体王調説を支持する歴史学者は少なくないようですが、一方で否定する説もあり、その真否は現在も決着がついていないようです。
少なくとも記紀の系譜が史実通りかどうかについては、分からないというのが謙虚な態度でしょう。

 

律令制と男系継承の構想

618年に隋を亡ぼして誕生した唐は新羅と組み、660年に百済を亡ぼし、668年に高句麗を亡ぼしました。
日本は百済を復興させるために663年、唐・新羅連合軍と戦いますが敗北します。(白村江の戦)
唐の拡大に危機感を抱いた日本は、唐の律令制度を手本として独自の律令制を作ります。
男系継承は、先に述べたように、古代の母系(又は双系)社会から徐々に移行していったと思われますが、律令制の成立とともに、確立したと思われます。
歴史学者の大山誠一氏は、天皇制は藤原氏が外戚政治を展開するために作り上げた藤原不比等の構想だという説を唱えています。
外戚政治を実現するためには、天皇の男系継承は当然必要だったことでしょう。
大山氏は、「天皇制とは、七世紀末の段階で、藤原不比等が草壁直系の王族を擁立し、その天皇を神格化し、これを利用して権力を掌握するための政治システムといわねばなるまい。」といい、記紀神話はこの天皇制を正当化するために創作されたものだとも述べています。
不比等は、持統天皇の子である草壁皇子から始まる万世一系を構想しましたが、草壁が夭折したため、草壁の息子の軽皇子(のちの文武天皇)につなぐ必要がありました。
神話では、天照大神(アマテラスオオミカミ)は、葦原中国を平定するために忍穗耳尊(オシホミミノミコト)を降臨させようとしましたが、忍穗耳尊は天降ろうとしたところ、下界は物騒だといって引き返してしまいます。
その後、忍穗耳尊は息子の邇邇芸命(ニニギノミコト)を降臨させるようにと進言し、その通りになります。
女神である天照大神が持統天皇、降臨しなかった忍穗耳尊は夭折した草壁皇子、降臨した邇邇芸命は即位した文武天皇と見なせば、記紀神話は後世の創作であると推測することも可能です。
また建築家の武澤秀一氏も、天照大神は持統天皇をモデルとした創作されたとして、持統王朝説を唱えています。
持統天皇の時代に、大嘗祭や式年遷宮が行われるようになったことなどから考えても、持統王朝説は確かに説得力があります。
いずれにしても、この時代に制度としての男系継承が構想されたのでしょう。

 

男系継承の制度化

第41代持統天皇から第42代文武天皇に引き継がれ、その後は男系継承していくはずでしたが、文武天皇は25歳で崩御したため、第43代元明天皇、第44代元正天皇と、2代続けて女性天皇が即位します。
さらに第46代孝謙天皇(第48代称徳天皇重祚)と奈良時代には多くの女性天皇が誕生しています。
草壁皇子や文武天皇が若くして亡くなったことにより、中継ぎとしての女帝だったのでしょう。
その後は、江戸時代に入るまで女帝は誕生しません。
757年に施行された養令律令の継嗣令において、皇位継承に関する規定が定められました。
これが男系継承を制度化したものだったといえます。
第1条「皇兄弟子条」には「皇兄弟皇子 皆為親王 女帝子亦同 (皇兄弟と皇子は皆親王と為す 女帝の子もまた同じ)」と書かれており、女帝の子も親王と認めているようにも見えます。
唐の「封爵令」を手本としたといわれていますが、「女帝子亦同」は日本独自の内容のようです。
女系容認派は、これを根拠として、女系天皇が認められていたと主張しますが、「女帝子亦同」については、女帝ではなく「女(ひめみこ)も帝の子、亦同じ」と読み、つまり「皇女もまた同じ」の意味だという説もあり、男系派の多くはこの説を支持しているようです。
養老継嗣令の全体を見ると、第4条「王娶親王条」には「王が親王を娶ること、臣が五世の王を娶るのを許可すること。ただし、五世の王は、親王を娶ることはできない。」と書かれています。
第1条に「親王より五世は、王の名を得ているとしても皇親の範囲には含まない。」と規定されているので、内親王は皇族以外の男性と結婚することができなかったのです。
結局、女帝の子が皇位を継承しても男系が維持される結果になってしまいます。
男系派が主張するように、確かに養老継嗣令は女系を排除したルールだったのでしょう。
但し彼らがいうように、それまで男系継承が連綿と続いてきたのではなく、まさにこの養老継嗣令から意図した男系継承がスタートしたのです。
成立に至る前に持統、元明、元正、孝謙(称徳重祚)と多くの女帝が誕生したことから、「女帝子亦同」が書き加えられたのではないでしょうか。
男系継承は、このように8世紀に始まったものであって、2000年以上も続いてきたものではありません。

 

権威と権力の分離は過去のシステム

男系継承が8世紀に始まったとしても、およそ1300年続いてきたことは事実のようです。
では1300年続いた男系継承にはどのような意味があったのでしょうか、そしてそれは将来も継承していくべき
伝統だといえるでしょうか。
男系派の主張には「男系継承というシステムによって、権力者は天皇になることができず、権威と権限が分離した。その結果、国が変わることはなく、1つの王朝が2000年以上続き、今の日本につながっている。それに対して、他国の王は権威と権力の両方を持っているので、王朝が滅び、新たな王朝が誕生するというように繰り返してきた。」というものがあります。
男系を守ることは、日本を守ることだといいます。
しかし権威と権力を分離することで王朝が滅びなかったというのは表面的な見方です。
中国で王朝が次々と交代したのは、易姓革命という思想があったからです。
易姓革命では、天命によって徳の無い王朝は徳をもった別の王朝によってほろぼされるといいます。
この思想のおかげで、権力者は武力で前王朝を亡ぼしても、自分こそ徳をもった王朝だと主張することができてしまいます。
つまり実質的には武力に依拠していても、正統性を主張することができたのです。
一方日本では、武力で権力を握ったとしても、中国のように徳をもった王だという正統性が認められることはありませんでした。
そこで中国とは異なる日本独自のシステムとして天皇制が始まりました。
藤原不比等の策略だったのかは別にして、天皇制は、日本の権力者が天皇の権威を利用して正統性を主張できる最適なシステムだったのです。
中国の王朝は亡び、日本の王朝は続いたといっても、権力者が交替したという点では同じだったのです。
国民の生活が、権力者の政治によって影響を受けるとすれば、見かけ上の王朝の交代よりも、実質的な権力者の交代の方が、より内実を反映しているといえます。
このように権力を持たず、権威だけをもった天皇は戦前まで続きましたが、戦後、日本国憲法の施行によって、天皇の権威は失われてしまいました。
日本国憲法前文に「・・・そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し・・・」と書かれているように、権威は国民に移行したのです。
権威を、権力に正統性を与える根拠になるものだとすれば、確かに武家社会においては、天皇から征夷大将軍という地位を任命されることで、権力に正統性が与えられていました。
しかし、現在の権力者である政治家は、民主的な選挙によって選ばれたことで正統性を主張できますから、そういう意味でも権威は実質的に天皇から国民へ移行したといえます。
天皇制における権威と権力の分離は、過去の権力者たちのために役立ったのです。

 

万世一系は日本の伝統ではなく皇国史観

1889年に制定された大日本帝国憲法第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と、万世一系が明文化されました。
同年に旧皇室典範の第一条「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と、男系男子による皇位継承が明文化されました。
現在の皇室典範は、憲法付属法として、1947年の日本国憲法と同時に制定されたものです。
日本国憲法が大日本帝国から大きく変わったのに対して、皇室典範は明治時代のものを継承しました。
第一条は「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」となっています。
明治時代に定められた男系男子限定の規定は、当然として決まったわけではなく、女系天皇を容認するかどうかが検討されていました。
初代内閣総理大臣の伊藤博文は、男系男子を基本としつつも、やむを得ない場合には女系で継ぐと考えていました。
そして皇室典範の草案となる「皇室制規」では女系を容認していました。
しかし、これに対して当時参事院の議官(現在でいう内閣法制局長官)だった井上毅は「謹具意見」を伊藤博文に提出し「女帝を認めず男系男子に限定するべき」と強く主張しました。
井上は「謹具意見」で次のように述べています。
「男を尊び、女を卑しむの慣習、人民の脳髄を支配する我国に至りては、女帝を立て、皇婿を置くの不可なるは、多弁を費すを要せざるべし」
つまり男尊女卑が人民の脳髄を支配する日本では、女系が認められないのは言うまでもないというのです。
井上のこの主張は、1882年、嚶鳴社の「女帝の可否」と題した討論会で女帝反対意見を強く主張した島田三郎の演説を引用したといわれていますが、この討論会では、女帝反対派3人、容認派6人と容認派の方が多かったようです。
しかし、主催者である沼間守一の意向が強く反映されたのでしょう。
男系継承で決まりという結論ありきのという点で、現在の有識者会議と同じようなことが行われていました。
このように、明治時代においても男系継承が当然と考えられていたわけではなく、女系容認論も多かったのです。
しかし結果的には、皇国史観という思想を取り入れて男系継承が実現しました。
井上毅も皇国史観を強くもっていたようです。
皇国史観の源流は、江戸時代の水戸学にあるといわれています。
水戸藩第2代藩主の徳川光圀は、明の儒学者である朱舜水を日本に招き、儒教の一派である陽明学を取り入れます。
前期水戸学は、儒教的世界観に基づき、天皇―将軍―水戸藩という秩序を守ることが水戸藩の正義だという尊王思想に留まっていましたが、後期水戸学では、ロシアの脅威により攘夷という思想が加わります。
水戸学者の会沢正志斎は「新論」を著し、尊王攘夷思想を説きました。
大坂東町奉行の下級武士で陽明学者でもあった大塩平八郎は、1937年に民衆と共に乱を起こしました。(大塩平八郎の乱)
幕末、吉田松陰は松下村塾で陽明学を広めました。
そして門下生の多くは倒幕運動に参加し、これが明治維新へとつながっていきました。
このように江戸時代後期には、陽明学や水戸学の思想から皇国史観が誕生しました。
皇国史観とは、尊王攘夷を掲げながら革命的な要素を内包した原理主義でもあったのです。
ゆるやかに多文化を取り入れてきた日本の伝統とは相容れない異質な思想だといえるでしょう。
男系派は、日本の伝統ではなく皇国史観を大切にしているようです。

 

天皇の正統性とは

天皇の正統性が、万世一系という血統でもなく、権威と権力の分離でもないとするなら、何のために存在するのでしょうか。
日本文学研究者の工藤隆氏は、天皇の存在について「縄文・弥生時代以来の、アニミズム・シャーマニズム・神話世界性といった特性を、神話・祭祀・儀礼などの形で継承し続けている」として、「そのようなアニミズム系文化を体現している超一級の無形民俗文化財としてこそ、天皇は存在の根拠を持つという風に、日本国民は意識を切り替えるべきなのである。」と述べています。
歴史学者の本郷和人氏は、武家社会以降の天皇は権力も権威も失ったが、情報と文化によってその存在意義があったと述べています。
武士は、知識や教養を持ち合わせていなかったので、朝廷から得ていたそうです。
天皇の役割や位置付けは、時代とともに変わっていきましたが、天皇はその変化に順応することで、存続し続けたのではないでしょうか。
存在し続けてきたこと自体が伝統だといえるのではないでしょうか。
歴史学者の故網野善彦氏は、次のように述べています。
「『そもそも天皇という地位』そのものが、それが国王であるか君主であるかなどの議論はさし当たり問題外として、古代から現代まで『ともかくも存在し』ているという『はじめから誰にでもわかりきったこと』を率直に認めるところから出発すべきである、と考える」
このように天皇の役割は多様であり、また時代によって変化してきたのです。
また存在していること自体に価値を認めるべきなのです。
したがって、今必要なことは、安定的な皇位継承を実現することではないでしょうか。
男系継承に固執して、皇位継承者がいなくなってしまっては元も子もありません。
万世一系とは愛国者を装った、無責任な思想です。

 

参考文献

内閣官房ホームページ 『「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する
有識者会議第13回 令和3年12月22日 議事の記録』
工藤隆(2021)『女系天皇』(朝日新書)
中野正志(2007)『万世一系のまぼろし』(朝日新書)
岡田英弘(2008)『日本史の誕生』(ちくま文庫)
津田左右吉(2020)『古事記及び日本書紀の研究 完全版』(毎日ワンズ)
大山誠一(2017)『神話と天皇』(平凡社)
武澤秀一(2021)『持統天皇と男系継承の起源』(ちくま新書)
竹田恒泰・谷田川惣共著『入門 女性天皇と女系天皇はどう違うのか』(PHP)
門田隆将・竹田恒泰共著『なぜ女系天皇で日本が滅ぶのか』(ビジネス社)
田中卓(2013)『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』(幻冬舎新書)
片山杜秀(2020)『皇国史観』(文春新書)
本郷和人(2009)『天皇はなぜ生き残ったか』(新潮新書)
網野善彦(1984)『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店)